安楽死について考える

安楽死と聞くと、どんなことを考えるでしょうか。

その問題は広い範囲に適応され、多くの信念や思想に反することにもなるかもしれません。

哲学的な部分も少なからず含まれ、簡単に答えの出る問題ではありません。

私も含めて、みなさんもきっと「安楽死」に思うことはあれど、答えを出せない人がほとんどなのではないでしょうか。
もしくは、「死」というものと向き合うには時間がかかりすぎ、考え始めても答えに行き着く気がしないばかりか、いつの間にか考えることから目を背けてしまうことがあります。

今回は、京都で起きたある事件やそのほかの歴史的事件、思想を具体例に、安楽死について少し知見を増やしてみましょう。

ALS女性嘱託殺人事件

2020年7月24日掲載の京都新聞の記事を抜粋します。

 神経難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者に対する嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕された事件で、京都府警捜査1課などは24日、大久保愉一(よしかず)容疑者(42)と山本直樹容疑者(43)を送検した。

 大久保容疑者は午後2時ごろ、移送車両に乗って留置先の中京署を出た。頭からフードをかぶってかがむような姿勢で、表情はうかがえなかった。

 逮捕容疑は共謀して、京都市中京区のALS患者の女性=当時(51)=から自身を殺害するよう頼まれ、昨年11月30日、女性の自宅マンションを訪れて致死量の薬物を投与し、急性薬物中毒で死亡させた疑い。

 捜査関係者によると、両容疑者は女性の担当医では無く、事件当日が初対面だったとみられるという。

京都新聞「京都ALS女性嘱託殺人事件、2容疑者を送検」(2020年7月24日 17:24)より

このニュースは衝撃と同時に人々に今一度「死」と向き合う必要性を与えました。

安楽死を巡る事件は以前から少なからず存在していました。


東海大学安楽死事件
 患者は多発性骨髄腫のため、東海大学医学部附属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。

 1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手は、患者の嫌がっているというフォーリーカテーテル(尿を出すためのカテーテル)や点滴を外し痰引(痰が絡むと呼吸不全に陥るので、吸引器で定期的に痰を吸い出してあげること)などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の2倍の投与量で注射した。

 しかしなおも苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家に連れて帰りたい」と求められた。そこで助手は殺意を持って、薬剤を投与し始め、患者は急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させられた。

 その後、事件が発覚し、助手は殺人罪により起訴された。なお、患者自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は嘱託殺人罪では無く、殺人罪となった。
※ウィキペディア「東海大学安楽死事件」より

名古屋安楽死事件(昭和37年判決)
 被告人の父親は、脳溢血で倒れ、2年前から全身不随であった。これを看護していた被告人は、父親の容体が悪化し激痛を訴え、しゃっくりの発作で息も絶えんばかりに悶え苦しむのを見かねて、「最後の親孝行」と考え、牛乳に毒物を混ぜ父親に飲ませて死亡させた。

 このケースでは、本人の現実的な意思を必ずしも絶対的な要件としていない点や、本人自身の苦しみというよりも周囲の者にとり「これを見るに忍びない」ことを重視している点、方法の妥当性・倫理性が論点となった。
 なお判決は、違法性があるとのことで、嘱託殺人罪が成立した。
※J-Stage 終末期医療ー医療・倫理・方の現段階ー「日本の安楽死裁判」(井田 良)より

判例に見る安楽死

前項でご紹介した事件2つの裁判は、長い間、大きな影響力を持ちました。
というのも、この2つの裁判内で、こう言ったケースを評価するにあたり、安楽死が合法とされるための要件がいくつか提示されたからです。

名古屋高等裁判所昭和37年12月22日判決
① 病者が現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること
② 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものであること
③ もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと
④ 病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること
⑤ 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえないと首肯(しゅこう)するに足る特別な事情があること
⑥ その方法が論理的に妥当なものとして容認しうるものであること

以上の6つの原則が示され、論点となりました。
これをリーディングケースとして、その後の東海大安楽死事件の裁判の際には以下の4つのポイントが争点となりました。

横浜地方裁判所の判決(東海大安楽死事件)
① 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
② 患者の死が避けられず、その死期が迫っていること
③ 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと
④ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

このように、安楽死が合法とされるべきだとした場合の、一種の判例があるものの、その実態の不透明感は拭えません。

というのも、「意識が明瞭であって、自己決定できる」と「耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる」などは両立が難しいですし、鎮痛剤など薬物を投与されている状況下の「判断能力」などは必ず争点になるでしょうし、周囲からの「死への自己決定」を事実上強制されている可能性もあったりしますから、結局のところ現在の法整備と過去の判例ではグレー(限りなく黒に近い)なのだと感じます。

海外での安楽死事情と歴史的事件

海外では、2002年にオランダが初めて国単位で合法化しました。

その後、ベルギー、ルクセンブルク、カナダでも合法化され、スイスでは明確な法律は無くとも利己的な動機以外の自殺ほう助は処罰されないという刑法解釈があり、安楽死が容認されています。(参照:毎日新聞『安楽死、海外でも議論 合法化後も問われ続ける「患者の意思」』)

こうして安楽死が容認されている国々でも安楽死に関する議論は今もなお継続的に行われています。

宗教的なバックグラウンドも織り交ざり、議論は哲学的、宗教的にも絡み合うので、正解は出ないでしょうし、正解があるのかどうかもわかりません。

安楽死とは、ドイツ語でEuthanasia、英語ではMercy killing(慈悲深い殺害)と呼ばれます。
ギリシャ語での「良き死」=Euthanasiaですから、それだけ古い時代から論じられてきたことになります。

歴史中で、安楽死を自己中心的に解釈し、あたかも大義名分があるかのような事件といえばナチスの安楽死プログラムなどが挙げられます。ホロコーストと呼ばれるヨーロッパのユダヤ人の大虐殺よりも約2年前に遡る国家社会主義ドイツ最初の大量殺戮プログラム。その取り組みは、ドイツ国家の人種的な「完全性」を取り戻すための数多くの過激な政策の一つで、「生きるに値しない命」=重度の精神障害、神経障害、身体障害を持つ個人を排除する試みでした。
(参照:ホロコースト百科事典「安楽死プログラム」)

悲しいことに、このプログラムは障害を持った子供たちにまで拡大され、全ての医師、看護師、助産師に対して、重度の精神的または身体的障害の兆候がある新生児及び3歳未満の子供の報告を強制する布告を出しました。

その後も年齢は上がっていき、17歳までの年少者が含まれ、最低5,000人の心身障害を持つドイツの子供達が、「安楽死」プログラムの結果として殺害されてしまいました。

安楽死プログラムは多くの意味でナチスどいつのその後のユダヤ人殺戮計画の前段階と言えるもので、精神的、身体的障害者以外に、宗教的、人種的に拡大して解釈をしはじめ、ユダヤ人やロマ族、シンティ族に拡大し、ガス室に送り込んだり実験を繰り返したりしたのですね。
(参照:ホロコースト百科事典「安楽死プログラム」)

ホロコーストに関する記述はたくさん見つかりますが、どれも胸が痛くなる内容ですし、本来であればもっととことん説明しなければならないことがたくさんあるのですが、本稿では「安楽死」についてを考える上で、脱線してしまうので安楽死プログラムという歴史的事件の紹介のみにします。

賢者が見る安楽死

多くの哲学者や医学博士、心理学者など専門分野の権威ある人たちが安楽死を議論してきましたし、現在でも議論は継続しています。

日本の医師で早い時期から安楽死について語ったのは、森鴎外かもしれません。

彼の短編小説、「高瀬舟」のあとがきに安楽死について少し触れられています。

従来の道徳は苦しませて置けと命じている。
しかし医学社会にはこれを非とする論がある。
即ち死に瀕して苦しむものがあったら、楽に死なせて、
その苦を救ってやるのがよいというのである。
これをユウタナジイという。楽に死なせるという意味である。
※現代表記
「附高瀬舟縁起」,1916年[大正5年]

哲学の世界でも、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、古代ギリシアの哲学者たちもやはり生と死に関して議論しており、生命をただただ伸ばす行為についてはほぼ共通して批判的に捉えているように感じます。

彼らは、生命の威厳(Sanctity of Life)生命の質(Quality of Life)を両軸に置いて考えていたのではないでしょうか。

何がその個人にとって最も良いことなのか、利益となるのか、ということです。

セネカには、「ただ生きることが善では無く、よく生きることが善である。したがって、賢者とはしかるべき長さだけ生きた者たちであって、生きることができるだけ生きた者たちのことではない」とあり、ソクラテスも「生きることが大切なのではなく、善く生きることが大切なのである」と説いています。

個人の尊厳を守ることは、何がもっともその人間にとって善いかの考察を抜きにしては語られない。
安楽死の問題は、患者本人の利益を単純に語ることができないところにその困難さがあると言われているが、有益性や善を論じることを避けて通ることはできないだろう。
すなわち、この問題が難解であるのは、利益を語ることそのことが困難であるからではなく、我々がたえず真摯に問いかけていかなければならない問題であるだからだと思われる。

京都大学学術情報リポジトリ「死の倫理:古代哲学における安楽死の問題」(国方栄二)

日本国内での今後の動向

今回のALS患者に関する事件を皮切りに、安楽死に関する議論が再燃するとは思いますが、果たして日本は今この議論への準備ができているのでしょうか?

 

私は半分外国人なので、日本に住んでいると、「ガイジン」と言われてきました。

私の祖母は、両手両足が不自由で、義足をして生活をしていた、いわゆる身体障害者でした。

世間は意外と冷たく、困っている祖母を手助けしようとする人はなかなか居ません。それにも関わらず、行く先々で「可哀想な人」「頑張っている人」と言うレッテルを貼られ続けていました。

祖母自身は明るく気さくで、自らのことを「かわいそうな人」や「頑張っている人」だなんて思っておらず、普通のことを普通にしていました。(料理、洗濯、買い物、おばあちゃん子だった私の授業参観、運動会、などなどに積極的に来てくれていました)

私が小学生、中学生の頃、祖母に対して「シンショー」(身体障害者を罵る言葉)と呼び、私を「ガイジン」と呼ぶ人たちがいました。
日本にはまだまだ、こうした考え方の人も少なからずいらっしゃるようにも感じます。

身体的不自由な人でも入りやすい店や施設もまだまだ少ないですし、外国人対応できる人もごくわずかです。
企業でHC採用をしても、結局企業自体にHCトイレが無かったりハード面で追いついていませんし、日本語以外の言語で会議を行う会社も少ないです。

どんな人にも平等に保障されるはずのQuality of Lifeを実感できる体制が整っていないのです。
まだまだ日本国内における、誰もが生きやすい環境整備が進んでいないと思います。

生きにくい環境しか用意されてないのにもかかわらず、安楽死を合法化しようと言う議論は先走りすぎているように思われる。
よりよく死ぬことを考えるより先に、よりよく生きることを考え、それができるだけの環境を整えた後でようやく安楽死を合法化するかどうかは考えられるようになるのだと思う。

『真に尊厳に満ちた死を実現するためには、最期までよく生きることこそ大切だと言うことである。尊厳に満ちた死は、尊厳に満ちた生の到達点に位置する恵みである。』(坂井昭宏、1996、「安楽死か尊厳死か」北海道大学図書刊行会)

と述べられているように、全ての人がよりよく生きること、尊厳ある生を送れるようにすること、まずはそれを実現させる必要がある。

「早稲田web 『ALS患者の尊厳死』をめぐって〜よりよく生きられる社会の在り方を考える(近藤涼午)より」

日本の自殺死亡率はG7の中でワーストです。

OECDは、日本はうつ病関連自殺により25.4億ドルの経済的損失を招いていると推定しています。

若者が自殺する国・日本。

3万人超の人たちが毎年自殺をしているのに、国民の関心も広まっていません。

人間関係や近隣のつながりの希薄化を肌で感じるようになり、経済基盤の脆弱な高齢者や非正規雇用労働者、難病闘病者、ハンディキャップを抱える人、1日1日を生きるエネルギーすらままならない人たちがあちこちに存在していますが、手を差し伸べる人たちが少ない現状。

また、行政サービスも現在の多様なライフスタイルに対応し切れていない状況と、個人情報保護法などによって善意的に支援しようとする第三者にとってさらに難解なステップも増えました。

地域社会のあるべきモデルというものが、現在は自殺や安楽死という社会問題に太刀打ちできるレベルに来ていないのが実状なのかもしれません。

私たちにできることは、まずは法整備などの制度化ではなく、関心を示し、問題提起し、議論を活性化させることなのではないでしょうか。

今回のように事件が起きれば、一時的な議論はあるものの、継続しません

専門家だけでなく、国全体で、国民それぞれが、真摯に向き合わなければ、おそらくずっとグレーのまま進行していく問題なのだと感じました。

 

今回、とても繊細な部分であり、多くの意見や考え方があると思います。

私も、あくまでも中立的な立場で多くの文献を読みあさり、結果的に、「継続的な議論が必要」と考えました。

答えが出ていないということです。

というよりも、答えなんてもちろん出せないのです、現段階では。

みなさん一人一人の心に、この問題が爪痕を残し、みなさんなりの考え方を持っていただくことが、まずはこの課題に関しての最初のステップなのではないでしょうか。


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